梅雨入りもすませた6月半ば、前日までの雨も上がり、雲間から木漏れ日さす早朝の都内から車を走らせること一時間あまり、ここが東京都かと思うほど牧歌的な風景がフロントガラスを通りすぎていきます。

目指すは、多摩南部に位置する町田市にある大賀藕絲館(おおがぐうしかん)
さん。知的ハンディキャップのある人たちが働く場所として運営され、30年ほど前から紅花やハス(大賀蓮)を種から育て、製品化まで行っています。


「おはようございます!どうぞ中をご覧になっていってください。」

正倉院風の建物に車を停めると、さっそく藕絲館で働く館生が大きな声を掛けて出迎えてくれます。

「では、さっそく紅花畑の方に行ってみましょうか!」

館の一切を取り仕切る梅原隆館長が穏やかな笑顔に作業服で現れ、藕絲館から10分ほどのところにある紅花と大賀蓮を栽培している畑までさらに車を走らせます。


住宅地を抜け小道を入ると、里山の間に青々とした蓮畑とちょうど深い黄色の花が咲き始めた紅花畑が広がります。
写真や映像でよく眼にする紅花ですが、実際に咲いている姿を見るのははじめて。黄色ともオレンジとも言えない独特の花の色にしばし見入ってしまいます。

紅花の里、山形に行かないと見ることができないと思っていた風景が、東京都内に広がります。


「紅花と蓮畑をあわせてだいたい13000平方メートルくらいあるでしょうか。ここはもともと水田だったところを町田市が借り上げ、農家の方などにも作業をお願いしながら、館生たちと紅花や大賀蓮を育てています。ちょうど今は、切り花用の紅花を収穫してるんですよ。」

梅原さんの指さす方に、スタッフの方のかたわらで紅花の花束を抱えた館生がたたずんでみえます。


「2月10日頃から時期をずらすように種を地植えし、6月半ばくらいから収穫をはじめます。毎年切り花用は、1500束位は出荷できるでしょうか。


もう少ししたら染色用の紅花の収穫もはじまりますよ。」

「毎年、強風で倒されてしまうんですが、今年も5月のGW頃に一度強風が吹いて、朝慌てて様子を見にきたら、里山で風が遮られたのか、まったく倒れていなかったんですよ。」

梅原さんはうれしそうに満面の笑みで語ります。

1951年千葉県の検見川で発掘された2000年以上前の古代の蓮の種を、植物学者・大賀一郎博士が発芽に成功させた。

大賀藕絲館という名前は、翌年、
米国ライフ誌に「世界最古の花・生命の復活」として掲載された「大賀ハス」からつむぐ糸(藕絲)でつくる織物を、障害者の授産施設の作業基盤にできないかという当時の町田市長のアイデアに由来するという。


紅花は蓮の葉柄から取った藕絲を紅く染めるためにあわせて栽培をはじめた。

収穫した紅花の花びらは、新鮮な内に潰しながら水に晒し、黄色素を洗い流し、ムシロに広げて乾燥しないように水を掛けながら発酵させること三日三晩。だんだん鮮やかな紅色へと発色していきます。

発酵した花びらを餅をつくようにつき、脱水したあとピンポン大に丸め、押しつぶし、乾燥すると紅染色の材料となる紅花餅(はなもち)の完成です。

文章でかくとあっという間ですが、棘のある紅花から花びらを摘む作業から発酵・乾燥までかなりの重労働が続きます。

「こんな重労働ですから、紅花を育て紅花餅をつくる農家は山形にも少なくなっています。あと、紅花染めは、コストがかかることもありなかなかする方も少ないですね。毎年製造した紅花餅も一部は館の冷蔵庫に眠っています。」

こうした向い風を吹き飛ばすべく昨年からは紅花祭りをはじめ、紅花飯なども企画、今年は町田の特産品として紅花麺の企画もあがっているという。さらに、近々、クッキーやジャムなどの製造もはじめる予定だという。


大賀藕絲館は、これからもハンディキャップを負った人たちの労働の場であると同時に、紅花や大賀蓮を取り巻く文化を継承発展する場でもあって欲しい。

だから、細くとも長くこの「場」が続いて欲しいと梅原さんは静かに語ります。

「ありがとうございました!」

朝摘みの紅花の花束と大賀蓮の実からつくった焼酎「太古のめざめ」を分けて貰うと、今朝と同じ快活な館生の声と館長の笑顔に見送られながら、次は大賀蓮の花の咲く7月にきます!と声を返し、館を後にした。

大賀藕絲館(おおがぐうしかん)サイト
大賀藕絲館の紅花餅と五島椿油でつくった石鹸 紅ツバキ


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